Bloody nightmare 〜月光の掌〜
「・・・・っ!!!」 ―― 真夜中のビュッセビュッケ城の一室でヒューゴは弾かれたような勢いで跳ね起きた。 バサッ 一瞬遅れて落ちた毛布の音がやけに乾いた空間に響いた。 「・・・はあ・・・はあ・・・・・・・つっ・・・・」 しばらく肩で息をしていたヒューゴは少しずつ息を整える。 しかし息がいつも通りに戻っても消えない不快感に顔を歪めた。 胸の奥に凝るようなどろどろとした感情をどうすることもできず、ヒューゴは乱暴に毛布をベットの上に投げ捨てると立ち上がった。 どうせこのままいくら横になっても寝られそうにない。 どこかでこの不快感を消さなくては、眠るどころの話ではなさそうだから・・・・ ―― 外は満月が煌々と輝いていた。 想像していなかったその明るさにヒューゴは少し目を細める。 しかし闇を裂くその白銀の光に照らされてもなお、ヒューゴの胸に渦巻くものは消えなかった。 外に出れば、少し外の空気でも吸えばどうにかなるかもしれないという淡い期待を裏切られて苛立たしげに舌打ちをしてヒューゴは外へ出た。 することもあても無かったが、街のほうへ行けばこんな時間でも誰かに会ってしまうかも知れないという思いからヒューゴの足は自然と湖の方へ向いた。 (風が出てれば・・・・) 体に溜まったものを吹き飛ばしてくれたかも知れない、と思ってすぐにヒューゴは首を振った。 そんなに簡単にこの澱が消えるとは思えなかった。 酷くのろのろと湖への階段を下りながら漠然と思う。 この澱んだものを拭い去れるとしたらそれは自分以外にないんだと。 でも、今はそんな事ができるとはとても思えない。 どうしようもなく溜息をつきながらヒューゴは階段の最後の一歩を降りた。 そして・・・・目に映った光景に凍り付いた。 (なんで、よりによって・・・・!) ここにいるのか。 彼女が ―― クリス・ライトフェローが。 湖の縁の石垣に座ってこちらに背を向けている彼女を認識した瞬間、気づかれるより先にこの場を立ち去ってしまおうかという誘惑にヒューゴはかられた。 その間はヒューゴの気配にクリスが気が付いて振り返るには十分な時間だった。 「!・・・・」 髪を下ろしていつもより遙かに軽装なクリスは振り返って自分の後ろに立っている人間がヒューゴであることを認識して少し驚いたように目を見開いた。 常にない年相応なその表情に何故かヒューゴは少しほっとした。 「・・・・何してるんですか?」 「え?・・・ああ、私?」 まさかヒューゴにそんな事を聞かれると思っていなかったのか、クリスは慌てたように言った。 無言で頷くとクリスは怪訝そうな表情のまま、すっと視線を湖の方へ戻した。 その視線の先に何があるのかなんとなく知りたくなってヒューゴはクリスの隣に座る。 ―― 湖に輝く月が映っていた。 「・・・・月を見てたの。」 「なんで?」 「・・・・おまえこそ、なんでこんな夜中にここにいる?」 沈黙が落ちた。 湖の寄せる波の音が優しく耳を打つ。 それを聞いているうちにヒューゴはふと聞きたくなった。 湖に映った月を見ながらぽつりと呟く。 「あんたでも」 「?」 「あんたでも・・・・自分の手が血に染まってる夢なんか見るのか?」 クリスがちらっとこちらを見たのはわかったが、ヒューゴは湖から目を離さなかった。 ―― 夢を見た。 カラヤクランが焼かれた後、初めてヒューゴは人を斬った。 それまでしていた狩りとはまるで違う、戦いをせざるおえなくなった中で。 例えそれまでどんなに嫌っていた者達でも彼らは獣ではなく、自分と同じ、人間だった。 肉を削く感触、返り血のぬるい暖かさ、崩れ落ちる瞬の眼差し・・・・ 初めて人の命を奪ったその時から、経験は悪夢となってヒューゴを苦しめる。 名も知らない兵士の返り血で染まった自分の手を愕然と見下ろしている、その足下に自分が命を奪った者達が次々に血の海に自分を引きずり込もうと手を伸ばしてくる。 ―― そんな悪夢を見た。 だからクリスを見て聞いてみたくなったのだ。 ゼクセン騎士団に年若い頃から属し、近年では「銀の乙女」と名高い戦場の戦女神。 狩りで腕を磨いた自分とは違う、誰かの命を奪うため鍛えられた剣を振るう彼女が己の手が血に染まる夢など見るのだろうか、と。 「見たのか?」 「・・・・時々。」 クリスの問いになんだか弱みをさらしているようでぶっきらぼうに答える。 しかし気にした様子もなく、クリスは「そうか」と呟くと視線を湖に戻した。 ことり、と沈黙が落ちる。 その沈黙がなんだか落ち着かなくてヒューゴが座り直した直後、クリスが視線を固定したまま言った。 「お前の夢の中で死んでいく者達は・・・・」 「・・・・・・・・・・・」 「それは誰に見える?」 「え・・・・?」 「知らない者か?」 「そ、そうだけど・・・・」 知らないゼクセン兵だとは言えなかった。 ついさっき夢の中で斬り殺した兵士の顔がちらついて、目を伏せたヒューゴの耳を打ったのは、穏やかなクリスの声だった。 「ならば、その顔がお前の知っている者に変わる前に、この戦いを終わらせなくてはならないな。」 「・・・・え・・・・」 弾かれるようにヒューゴはクリスを見た。 クリスはいつの間にか湖の方に目を向けていた。 その横顔は驚くぐらいに静かなもので、ヒューゴは戸惑う。 (知っている者に変わる?そんな夢を見るっていうのか?) 戦場で迷うそぶりなど見せずその磨き上げられた腕で剣を振り下ろすこの人が。 女神とも鬼神とも言われるこの人が。 自分のように・・・・否、あるいは今の自分よりも悪夢に悩まされているのだろうか。 何も言えず、ただ呆然とクリスを見つめるヒューゴに視線をよこすことなくクリスは湖を見つめていた。 ―― 湖に映る輝く白銀の月を見ていた。 (・・・・っ) 静かすぎるクリスの横顔に、ヒューゴは唐突に悟る。 クリスもまた、悪夢を見たのだと。 不意にクリスが自分の片手を持ち上げて湖の月にかざした。 「・・・・夢でなくても見えるよ。私の手は血まみれだ。」 「・・・・・・・」 「お前の言うとおり、私は何人もの人の命を奪った。この手で剣を振るって。・・・・けれど、この手で護ってもいる。」 「ゼクセンの、人間をか。」 「そう。今はグラスランドも、ね。私はあまり器用な人間ではないから、剣を使わず血を流さず現状を打開する術はさしあたって思いつかないから。 だから、この手で剣を振るう。」 血にまみれても、数多の命を屠っても・・・・どんなに苦しんでも。 そこでクリスはふっと苦笑を口元に登らせて呟いた。 「ナッシュだったか、シーザーだったか忘れたが面と向かって不器用だと言われたこともあるしな。しかしこれが私の出来る精一杯なんだ。 私の手が血のまみれるぶんだけ、どこかで血に染まらなくてすむ手が生まれているんだと、そう思うことにしている。 だから、私の手は血まみれでいいんだ。」 そう言って何かを掴むように握ったクリスの手を、ヒューゴは酷く綺麗だと思った。 白く白く、白銀の月の光のように。 「・・・・あんたは本当に強いんだね・・・・」 「え?」 驚いたように振り返ったクリスの髪に月光が跳ねて、やっぱり酷く綺麗に見えて、ヒューゴの胸がことんっと音をたてた。 そしてその事が、何となく悔しくてヒューゴは鼻を鳴らして視線をクリスからそらす。 はずみで思っていたことが口からこぼれ落ちた。 「それにズルイ。」 (ズルイよ。強くて、弱くて、綺麗で・・・・追いつけないじゃないか。) こっちは必死であんたの背中を追いかけてるっていうのに。 「ヒューゴ?あの、どうかしたのか?」 わけがわからないながらも、ヒューゴの雰囲気が変わったことに気がついたのだろう。 戸惑ったようにこちらを見てくるクリスにヒューゴはくるりと向き直った。 正面から ―― もしかしたら、初めて正面からぶつかったかも知れない視線にクリスはたじろいだように半身体を引き、ヒューゴは背をぴしりと伸ばす。 そして自分の手をクリスに向かって突き出した。 「??」 「手!」 「え?」 「そこから降りて、手、出して。」 「え?あ?は、はい・・・・」 ヒューゴの勢いに押されたのか、何故か素直にクリスは石垣を降りて言われたとおりヒューゴの方に手を差し出した。 その手を、ヒューゴは乱暴に掴んだ。 「え!?ちょ、ちょっと、ヒューゴ!?」 驚いたクリスの声を聞かないようにヒューゴはクリスに背を向けて歩き出した。 手を繋いでいるせいで引っ張られてクリスも歩き出す。 「ど、どうしたんだ?あ、あの手・・・・」 「いいから。帰るよ。」 「ええ?」 「まったく、手がこんなに冷たくなる程、水際にいるなよ!」 思わず言ってしまったぐらいクリスの手は冷え切って冷たかった。 血まみれだとクリスが言った、白くて綺麗な手は掴んでみれば自分の手と同じぐらいに小さくてヒューゴの鼓動がとくんとくんと煩く騒ぐ。 この人はこんな手を持っているのだ。 鬼神のように強く人の命を屠る手、血まみれのそれに苦しみながらなお誰かを護ろうとする優しい手、冷え切っていても内の何かがにじみ出てくるような温かい手を。 ヒューゴは半ば自分に引っ張られるように着いてくるクリスをちらりと見て呟いた。 「・・・・俺はあんたの手も包めるぐらい大きな手になってやる・・・・!」 「え?何か言ったか?」 「なんでもないよ。たださ」 小さな呟きは運良くクリスに拾われなかったらしく、聞き返してくる彼女にヒューゴは何処か晴れやかに笑って言った。 「しばらくは悪夢は見ないですみそうだって思っただけ。」 ―― いつの間にか、胸の内に巣くった澱は消え去っていた ・・・・血にまみれた手で護れるものなど多くはないかも知れない。 けれど、それでもなお必死に何かを護ろうとする手を知ったから。 その手と共に、何かを護れる血まみれでも真っ白な手が欲しいと、そう、願った・・・・ 〜 END 〜 |